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□ クレイジー・サーフ・ナイト     2005年9月3日〜30日

おそらく世界中で最もポピュラーなサーフィン映画であるはずの『ビッグ・ウェンズデー』は、いつか来るはずの幻の大波を夢見ながらいつまで経ってもやってこないその波が、彼らの現実との間に作る引き延ばされた時間の中で生きるサーファーたちの物語であった。
そこにはない幻の波と共にサーフする彼らの姿は、それ故にすでに「伝説」であり、彼らを見つめる子供たち、老人たちは、その中にいつかこうなるであろう自分やかつてそうだったはずの自分の姿を幽かに見つけ、そして彼らもまた、幻の波の作るグルーヴィーな時間のうねりの中に入っていったのだった。
したがって『ビッグ・ウェンズデー』とは、そこにはいない者たちとそこにはない波が作り出す時間のうねりの物語、と言うことができるのではないかと思う。
もちろん、それこそが「アメリカ映画」だと、監督のジョン・ミリアスは考えていたに違いない。つまりそのうねりの中には、西部を徘徊する荒くれ者たち、カジノのギャングたち、ギャンブラーたち、戦地の英雄たち、誰からも振り返られず死んでいく兵士たち、常に男を惑わす運命の女たち、窓辺の薄明かりの中にたたずむ女たち、あるいは、ロボットが支配する未来社会でかろうじて生き延びる人間たちなどなどが今なお息づいている……。
だから、誰もいないLAの浜辺で一人、サーフボードを持ったピーター・フォンダが直立して遠く海の彼方を見つめるとき(『エスケープ・フロムL.A.』)、サーフボードを積んだヘリコプターが極上の波を求めて敵陣深くへと進撃していくとき(『地獄の黙示録』)、あるいは、LAの波に飽きた若者たちが陸に上がりスケーターとなって当時のスケボー界を荒らし回り(『DOGTOWN & Z-BOYS』)、もはや波そのものとなったカメラの視線がピンク・フロイドの「エコーズ」と共に我々をそのうねりの中に誘い込むとき(『クリスタル・ボイジャー』)、我々の胸はあんなにも高鳴るのだ。
我々は幻の波と共に時間のうねりの中に入る。
それがサーフ映画を見るということだ。 たぶんそれは、『エスケープ・フロムL.A.』の最後、地球の電力がすべて消滅したあとの暗闇の中で見られる何かであり、ベトナムのジャングルに潜った主人公たちがその中で見た何かであり、その地に赴きじわじわと神経をやられていったカメラマンが写し損ねた何かであるだろう。
あるいは、50年代に生まれたロックンロールを海辺の不良少年たちがその波のグルーヴと共に演奏し、それを聴いた内陸ミネアポリスの若者たち(トラッシュメン)が妄想してできあがった「サーフィン・バード」を、更にそれを聞いたクリーヴランドのひねくれ者(クランプス)が増幅するのを聴く、といった折り重なった時間の中に、それは我々を置き去りにするだろう。
波は常に新しく、常にひとつであり、常に多数である。
それは「ヌーヴェルヴァーグ」「ニューウェイヴ」、あるいは「ロックンロール」と呼ばれている。
樋口泰人(boid)

〈爆音サーフ〉ということ

昨年は台風の多い年だった。われわれがロケハンに行った北海道にも、第何号だったか忘れたが、大型の台風がわれわれを追いかけるようにやって来た。
太平洋に面した海岸で、その台風がわれわれの目前、はるか沖合を通過していくのを見た。いや、見た、というより聴いた、のかもしれない。耳を聾し、さらに全身を聾する波の、あらゆる音階、あらゆる位相を押し潰すように立てる音を、われわれは浴びた。
同行した音楽家は、その音を聴きながら、勝てねえな、と小さく呟いた。
僕は即座に「メメント・モリ」という言葉を思い出した。陳腐なようだが、しかしそれはそれだけのものを持って、われわれを包んでいた。
『ビッグ・ウエンズデー』のずっとあと、なにか郷愁のようにしてつくられたもうひとつのサーフ映画『ハート・ブルー』の最後、強盗団のリーダーであるパトリック・スウェイズを追って南半球までやってきたFBI捜査官キアヌ・リーヴスは、誰もが逃げ出す歴史的に巨大な波に向かうスウェイズを見逃す。そこで、スウェイズは死を畏れないのではなかったし、リーヴスもスウェイズの死を望んだわけではなかったように思う。裏返された「メメント・モリ」とでも言えばいいか、とにかくそれはタナトスとは違う、「厳粛な死」の表れだった気がする。
「厳粛な死」とは、故・相米慎二の『台風クラブ』で呟かれる言葉でもある。 《僕たちには厳粛な死が足りない》、と。
多幸症に彩られた平成日本で公開された『ハート・ブルー』の原題はPoint Break。英語のわからない僕には推測の域を出ないが、それは「波の崩れる瞬間」であり、同時に「存在の崩れる場所」でもあると読んだ。そこは「厳粛な死」の訪れる時空だろう。
ビーチ・ボーイズ『サーフズ・アップ』の最後、そのタイトルが歌われた直後のハミングにもPoint Breakがある。高まる波に乗り、若者に混じって春を味わえ。自分以外誰もいなくなったその時空で、ブライアン・ウィルソンは呟くようにそう歌う。やりきれない妄想かもしれないが、そこには「厳粛な死」を乗り越えた者だけが語りえる教えがある。
いや、サーファーではないわれわれにとって、サーフはすべて妄想に違いないのだから、波と対峙する、ということは須らくそういう「厳粛な死」との直面である。
どうあがいたって陸サーファーである映画もまた、波と対峙したい、と思う。自分の中の春をひっぱりだして。音楽家に敗北を呟かせた大いなる映像と音響に届け、と可能なかぎり背伸びをしたい、と思う。仔猫がライオンになる夢を見るように。
かつてそれは〈ヌーヴェル・ヴァーグ〉と呼ばれた。
いま、それは〈爆音サーフ〉と呼ばれる。
青山真治


上映作品


『ステップ・イントゥ・リキッド』  STEP INTO LIQUID

2003年作品/ヴィスタ/87分
提供:グラッシィ
監督・脚本:デイナ・ブラウン
出演:レイアード・ハミルトン、ケリー・スレイター、ジェリー・ロペス、ロバート・オーガスト
撮影:ジョン=ポール・ビーグリー
音楽:リチャード・ギブス

おそらく一般的なサーフィン映画のほとんどがそうなのだが、サーフィンと映画と音楽と、そして生活とが、ごく当たり前のようにひとつのものとして描かれる。そこでは日常と神秘との区別はなく、すべてが波の繰り返しの前で平等である。その平等を保証しているのは何かと言えば、この映画においては、おそらくポストプロダクションの段階においてつけられたであろう波の、地鳴りのような低音である。サーファーたちが現実に聞いているのではないかもしれぬ、この低音の聞こえてくる場所への道が、この映画では幽かに示されているはずだ。

『クリスタル・ボイジャー』 CRYSTAL VOYAGER
1972年作品/ヴィスタ/79分
提供:グラッシィ
監督:デヴィッド・エルフィック
脚本・撮影・出演:ジョージ・グリノー
出演:ナット・ヤング、リッチー・ウェスト
撮影:ジョージ・グリノー、アルバート・ファルゾン
音楽:G・ウェイン・トーマス、ピンク・フロイド("Echoes")

別々に作られたふたつの作品をひとつにまとめてしまうという野蛮さと、その野蛮さをコーティングしてなめらかな一続きのものにすることをどうでもいいと思ってしまう作品に対する姿勢は、60年代から70年代のある時期を経た者に時折見られるひとつの傾向を示しているように思う。それはニール・ヤングのアルバムの厳密な粗雑さにも似て、我々に、何かを作ることの意味を厳しく問いかける。主人公のサーファーが海に飛び込んだ瞬間から一気に展開される、ピンク・フロイドの「エコーズ」がまるまる1曲分響き渡るめくるめく波と空の渦巻きは、そんな彼らの生きる態度を支える場所へと、我々は強引に連れ去られるだろう。

『DOGTOWN&Z-BOYS』  DOGTOWN AND Z BOYS
2001年作品/91分
提供:アスミック・エース エンタテインメント
監督:ステイシー・ペラルタ
出演:ジェフ・ホウ、スキップ・イングロム、クレッグ・ステシック、ショーン・ペン(ナレーション)
脚本:ステイシー・ペラルタ、クレッグ・ステシック
撮影:ピーター・ピラフィアン
音楽(使用楽曲):ジミ・ヘンドリックス、ジェイムズ・ギャング、レッド・ツェッペリン、ZZトップ他

70年代初頭、海辺に集まっていたサーファーの悪ガキたちが、海には飽きたらず陸に上がりスケーターとなる。もちろんそこでも大暴れしてスターとなった挙げ句、それぞれが人生の厳しさに直面する。まるでロックバンドのドキュメンタリーを見ているかのような、チームの成り上がりとその後の人生のドキュメンタリー。おそらくアメリカには、似たような物語がゴロゴロと転がっているのだろう。それらが何度も何度も繰り返され、大波となっていつの日か我々の前にやってくる。そんな予感に満ちた未来からの視線を、この映画は我々に提供する。

『エスケープ・フロム・L.A』. JOHN CARPENTER'S ESCAPE FROM L.A.
1996年作品/シネマスコープ/101分 
提供:UIP
監督:ジョン・カーペンター
出演:カート・ラッセル、ステイシー・キーチ、スティーヴ・ブシェミ、ピーター・フォンダ
脚本:ジョン・カーペンター、デブラ・ヒル、カート・ラッセル
撮影:ゲイリー・B・キッブ
音楽:シャーリー・ウォーカー、ジョン・カーペンター

デビュー作『ダークスター』でも「宇宙サーフィン」をやって我々の度肝を抜かせたカーペンターは、ここでも驚くべき波を仕掛ける。一体、このようなビッグウェーヴが映画を襲ったことがかつてあっただろうか。まるで、映画を作ることとは幻の大波をいかにして出現させるかをひたすら考え知恵を絞り続ける行為であると、カーペンターは考えているかのようでもある。そしてその大波こそが、世界の果ての暗闇を絶好調で乗り切るためのよき伴侶であると。その時、魂のサーファー、ピーター・フォンダとカート・ラッセルのクールな連帯が、その暗闇の世界を熱く照らすだろう。

『イージー・ライダー』  EASY RIDER
1969年作品/ヴィスタ/95分 
提供:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント
監督:デニス・ホッパー
出演:ピーター・フォンダ、デニス・ホッパー、ジャック・ニコルソン
脚本:ピーター・フォンダ、デニス・ホッパー、テリー・サザーン
撮影:ラズロ・コヴァックス
音楽:ザ・バーズ

サーフィンではなく、こちらはホットロッドということになる。フロリダを目指す改造バイクに乗った男たちのLAからの旅。もちろん目的の場所にたどり着けるはずはないのだが、しかし手探りで進む自らのその足取りこそが事後的に到達点となっていることを、彼らは知っている。ひたすら陸にへばりつき、怒濤に耳を澄まし目をこらす陸サーファーの視線の果てに、彼らはいる。つまり、彼らはまさにアメリカの旅人であるのだ。

『地獄の黙示録・特別完全版』  APOCALYPSE NOW REDUX
2001年作品(オリジナル1979年)/シネマスコープ/203分
提供:日本ヘラルド映画
監督:フランシス・フォード・コッポラ
出演:マーロン・ブランド、マーティン・シーン、ロバート・デュバル、デニス・ホッパー
脚本:ジョン・ミリアス、フランシス・フォード・コッポラ
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
音楽:カーマイン・コッポラ

サーフィンが、いかにアメリカを狂わせもしアメリカを支えてきたかを、この映画は明らかにする。もちろん現実のサーフィンではなく、到達し得ない場所に向けての無限の跳躍のことを「サーフィン」と呼ぶならば、という意味においてだが。ジャンル映画の規制が不本意にも崩れてしまった後に作られた70年代映画の多くが闇雲に強いられたはずのその跳躍の、永遠の持続としてこの映画はあるのだと言えるだろうか。その意味で常に新たな波が、この映画からは押し寄せてくる。
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